私たちは自分の中にある「命の軽さ」に向き合っているだろうか。

今年度、7年ぶりに再開した新・荒井ゼミのテーマに「内なる優生思想」を取り上げました。日本の社会の中に、「生命に対する軽さ」が広がっているのではないか、という私の危機意識からこのテーマを選んだのです。「教育学会誌」に次の文を書きました。ゼミのみなさんには配布しましたが、ゼミのスタートにあたっての問題関心を共有してもらうため是非読んで下さい。再録します。

 

神奈川県相模原市にある県立の知的障がい者福祉施設「津久井やまゆり園」で、2016年7月、入所者19人が刺殺され入所者・職員計26人が重軽傷を負わされた事件が発生した。同園の元職員である植松聖被告が逮捕され、公判が今年1月から始まった。事件発生前の被告の行動から今現在の公判中に至るまで、全てが異様な展開を示している。被告は犯行に先立ち衆議院議長宛に手紙を書いている。その中には「(障がい者が)家庭内での生活、及び社会生活が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死」させる、なぜならば「障害者は不幸を作ることしかできない」からだとする。障がい者を抹殺することが「世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐこと」になるとある。

この事件の第一報を受けた時、「とうとう起きた」という印象をもった。「まさか!」と思わなかった自分自身に慄然とする思いである。なぜか。日本社会の、日本人一人一人の中に、「人間に対する見方」「人の命に対する見方」の軽さが蔓延しているように思えてならないからである。2000年代に入って広がる「嫌韓国・嫌中国」ブームに関係するヘイト・スピーチでいとも簡単に「○○人を殺せ」というスローガンが使用される軽さ。社会全体に広がる一人一人の人間の価値を「効率性」と「生産性」を基準にして評価される業績主義の蔓延。さらにいえば事件後の被告を賛美・称賛する声。こうした風潮こそが事件の底流にあったと思うからだ。

人間の命へのランク付けは、差別や偏見を超えた優生思想そのものである。優生思想とは、人間の命をランク付け「生きる価値のある命」と「生きる価値の無い命」に峻別し、その上で生存の適否を決定するおぞましい考え方である。戦前のナチス・ドイツにおけるユダヤ人や障がい者への大量殺戮を想定すれば理解できるだろう。注意すべきは、こうした差別・偏見を超えた優生思想が日本歴史の中で生き残ってきたということだ。簡単に振り返ると、アジア・太平洋戦争中の1940(昭和15)年5月に制定された「国民優生法」の第一条は「悪質な遺伝性疾患の素質を有する者の増加を防ぐ(後略)」とあった。実は、戦後日本国憲法下においてもこの優生法的発想は継続した。1948(同23)年7月制定の「優生保護法」第一条は「優生上の見地から不良な思想の出生を防止する」とあった。いうなれば「優生思想」は、戦前から戦後への、大日本帝国憲法下から日本国憲法下への価値理念の大きな転換にも関わらず継続して生き残った思想なのである。

しかもこの優生思想は、学校教育を通じて、一人一人の日本国民に浸透していく。戦中の教科書『生物5』には「精神病や精神薄弱などのうちには明らかに遺伝性で(中略)社会に迷惑をかけたり、国家の手数をわずらわしたりしている。このようなわるい性質が子孫に遺伝しないようにすることは、国家として当然」だとある( 中等学校教科書株式会社、1944(昭和19)年に刊行)。戦後の教科書はどうか。『改訂版 健康と生活』では「『優生保護法』は結婚を禁止しているのではない(中略)かりに悪い遺伝性の病気を持って(中略)いるような場合には,不良な子孫が生まれないように優生手術を受けてから結婚しなければならない」とある(教育図書株式会社、1970(昭和45)年刊行)。教科書を通して「優生思想」は日本社会の奥深く、一人一人の国民に浸透しているのである。だとするならば、現代教育の課題の一つに、この「優生思想」の克服があるのではないか。

近年、「優生思想」が表出したと思える事態がみえる。例えば、2018年8月号『新潮45』誌で自民党衆議院議員杉田水脈氏が「LGBT(中略)は子供を作らない、つまり『生産性』がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのか。」と書いた。LGBTの人たちを「生産性」で評し経済的価値を論じる命に対する軽さ。2019年6月に川崎市登戸で無差別殺傷事件が発生し小学生の女の子と別な小学生の保護者二人が命を奪われた事件に際し、加害者の50代ひきこもり男性がその場で自殺した際「死ぬなら一人で死ね」という声が出たが、この声にも命に対する軽さがみえる。命に対する軽さ・優生思想が私たちの眼前にある。そうだとすると現代の教育学と教育実践が対峙すべき課題がここにあるといえよう。と同時にそうした課題に立ち向かうためにこそ、今私たちは自己の中にあるみずからの優生思想(差別・偏見思想)に厳しく向き合わなければならないのではないかと思うのである。