皆さんのコメントを読んで 馬場朝日
星野さんの1・2章のコメントを読んで
事件後に広まった植松容疑者への同情のツイートをお門違いなのではないかと考える意見には、とても共感できた。窃盗事件に例えて考えているのもとても分かり易かったと思う。しかし、このツイートをお門違いといって片付けて良いのだろうか。「まじめで素行の良かった彼が殺人を犯すくらい過酷な介護の実態の認識と改善が必要」というツイートをただの同情のツイートとも考えることができるが、植松容疑者が犯したような事件がこれ以上起きないためには、介護の実態を認識し、改善しなければいけないという点では、お門違いな意見ではないとも考えることができるのではないのだろうか。
阿部さんの1・2章のコメントを読んで
本当にこの事件は、ヘイトクライムなのだろうかという疑問は、自分にはなく、読んでいて興味深かった。確かに、植松容疑者は衆議院議長大島理森宛ての手紙に障がい者の保護者のためとも書いてあるが、「障がい者は不幸しか生まない」なども書いてあることを考慮すると、やはり、この事件は、ヘイトクライムだったのではないかと私は考えた。
文章を読んでいて気付いたことは、他の方の文章のように、段落を変え、読点を適切な箇所に入れると読みやすくなるのではないのかと思いました。
名倉さんの1・2章のコメントを読んで
所々に出てくる言葉遣いや出てくる言葉が難しくて、自分の知識が乏しいことを思い知らされた。「事件が起きた後は多少なりとも、障がい者を助け合おうとする気持ちが生まれるものだと思っていた。」という部分に共感できた。障がい者への助け合う気持ちが広まっていくどころか、優生思想を持つ人にとってこの事件が、後押しになる可能性があるのは驚くべきことだと思った。
磯崎さんの1・2章のコメントを読んで
読んで思ったことを、身近なもので例え、身近なものと繋げて考えているところにとても感心した。本に書いてあることを自分の日常や身近なことに繋げて考えられるのは普段から意識して物事を見ていないとできないことだと思う。
二章のコメントで、「生まれてきて何にも影響を受けなければ差別は起こらない」と書いているが、私は、そうは思わなかった。何の情報もない初めて会う人と対面し、その人が、自分とは異なる特徴を持っていた場合、「受け入れ難い」と思った時点で差別の始まりではないのかと思うからだ。(伝わってなかったらごめんなさい。)
志賀さんの1・2章のコメントを読んで
容疑者や被害者の背景を重点において読んでいることがとても伝わってくる文章だった。この事件を「植松容疑者が持つ優生思想という考え方ではなく、生産性で人の価値を評価する社会にあると考える。」という部分が共感できた。
名前を公表することの重要性や価値をたくさん述べているが、共感できる点と疑問点があった。事件の真相に迫る上で名前を公表することは重要だとは思うが、自分が被害者の親という立場で考えてみると、名前を公表することは容易なことではないようなに思える。障がいの有無に関わらず自分の子どもが殺害されたら名前を公表することに抵抗はあるのではないだろうか。
坪井さんの1・2章のコメントを読んで
第一章のコメントでの、「植松容疑者の心理を理解できない」という考えに至るまでに、自分が体験した例や、世間一般的な考え、植松容疑者が障がい者についてのスペシャリストだという点に考慮していることなどを挙げながら話を展開していたので、主張の理由が理解しやすかった。
第二章では、事件後も同じ施設を使い続けていることに関しての考察があり、興味深い内容だった。誤字などがあり、少し読みづらかったのが残念です。
高橋さんの1・2章のコメントを読んで
障がい者の件数を調べて書いていることは、とても良いことだと思うが、何のために件数を述べたかが理解できなかった。自分が障がい者の方を見るときの目や、見ているときの気持ちを正直に書き、なかなか書きづらいであろうことを書いていて感心した。思っていても書きづらいことを書くことの大切さが分かった。
被害者の匿名の件について、本に書いてある意見とは異なっていることに共感した。「もういいから静かに終わらせてくれ。」という気持ちからなる匿名希望はあるのではないのかという意見に私も賛成する。。
渡邊さん1・2章のコメントを読んで
ところどころにある内容の要約は、不必要なのではないかと思った。自分の意見を中心に書いて、渡邊さんが考えたことをもっと知りたい。「思った。」や「感じた。」ではなく、もっと詳しくなぜそう感じたか、思ったかを教えて欲しい。
二章に書いてある「障がいがあっても同じ人間」という言葉は、とても印象に残った。全体を通して、渡邊さんが優しい心を持った人というのが感じ取れた。