「人の言葉を伝える」感想 名倉令
大学一年生の時に感じた、求められる読み書きのギャップを思い出させるものだった。あの頃は、「なぜギャップが生まれるのか」がいまいち釈然としなかったが、今ならはっきりと言える。読み書きの主体が違ったのだ。高校生までに必要とされる読み書きとはパズルのようなもので、文を論理的に解体さえすれば明確な答えが存在した。進学校になれば現代文の授業でさえ、作者の思いを文章から汲み取るものではなく、第三者が用意した答えを文章から探すものとして授業が展開される。答えが存在するからこそ、他人の考えを理解する必要もなければ、文章から汲み取った自分の考えを相手に明かす必要もない。自己完結で終わる読み書きを育てていくものだ。だからこそ、明確な答えが存在せず、様々な意見が飛び交う大学の学びでの読み書きの主体との間に齟齬が生じたのだろう。一見して大江氏の文章と関係のないように思うが、私はこのギャップへの向き合い方で、不幸な人から脱せるか否かが決定すると考えた。ギャップに向き合うと、理解は出来るが上手く批判が出来ない。意見はあるが正しいか分からないといった様々な葛藤が生まれてくる。見ないふりをしてしまえば、自分の意見を言い立てるだけの不幸な人になってしまう。その一方で葛藤を乗り越えるために、大江氏が提示する文章を正確に書くことを行い、その中で注意深さが醸成されることによって不幸な人から脱し、信頼がおける存在になっていくのだと考えた。入学当初の私たちは、他者の論文を引用する際に著者の伝えたいことを理解もせず、「自分にとって都合の良い最高の根拠」として引用しようとする。大江氏の表現でいうと、「話を自分の面白いとする方向へと作り替えてしまうこと」を知らん顔でしており、初めから私たちは不幸な人に片足を突っ込んでいる状態なのだ。それに気づいてもらうため、初めに教授から教わることが論文の引用の仕方で、他者の意見を注意深く見聞きすることなのではないか。