「相模原事件とヘイトクライム」第一章 名倉 令
この凄惨な事件が起きたとき、私が抱いた感情は非常に複雑なものであった。人の命に軽重をつけることは、決して許されてはいけない。ナチスで実施された優生政策がおぞましい体験として今も尚、語り継がれる点からも理解できるだろう。だが実際、植松被告の暴論に理解を示した部分も存在した。
植松被告が主張する「普遍的正義」の片鱗は、誰しもの心に内在するものなのではないかと私は考える。表だって隠れていても、ふとしたときにそれは露呈しやすい。私たちは社会的弱者への同情や、線引きをするという形で無意識的に差別をおこなっているからだ。こうした日常に潜む無意識的な差別が、植松被告の歪んだ正義を肯定してしまう材料になり、野田聖子氏がいうある種の嫌悪に発展する危険性をはらむのではないかと感じた。
また優生思想の蔓延は、現代医療の発達とともに人々に広がっているとも言えるのではないかと考える。その一例として、出生前診断を挙げたい。出生前診断とは、妊婦のお腹の中にいる胎児に潜在的な障がいがないかどうかの検査だ。この最新の検査は、以前のものと比べ高精度で、母体を傷つけない方法へとかわり、より多くの人が受けやすいものとなった。しかし、このことを素直に喜べるかと言われたら、慰問が残る形になる。なぜなら、検査の母数が増えるにつれ、それだけ中絶を選択する可能性が高くなるのだ。つまりその子は、両親がもつ優生思想で望ましくないと判断されてしまったということになるのではないか。望んで得られた妊娠であるにも関わらず、子どもが親の期待にそぐわない存在なら中絶を行う。生まれた子どもが可哀想だという見勝手な親の価値観で、命を奪っていいのだろうか。その時、生まれてくるはずの子どもの意思はどこに存在するのだろう。これでは植松被告の障害者抹殺論と何ら変わらないのではないかと私は考える。命の差別は許されなくて、命の選別は許されてしまう社会の秩序が存在する中で、どのような共生社会を実現していくというのだろうかと疑問に感じた。