『相模原事件とヘイトクライム』第4章の感想 星野凌摩

 藤井さんは、障がい者への諸問題を考え、伝えようとするこれからの未来を考える上で、社会の無関心さが最も厄介な障壁であり、教育はこの伝える役割に力を入れていかなければならないという旨を仰られている。この無関心さが、障がい者の生命と尊厳を守るために築いてきた取り組みをいずれ淘汰してしまうと考えられるのは、本誌中からも明らかである。加えて私は、無関心さがかえってその人を「差別」という言葉に敏感にさせてしまうと考える。
 私は幼い頃から、お盆の期間になると父方の祖母の家に集まっていた。その時集まる親戚の方々は毎回同じで、その中に視覚障がいを持っている私より10歳歳上のひろあき君という人がいた。幼い頃からなにかと遊んでもらっていて、歳の差が大きかったにも関わらず非常に仲が良かった。彼は成人してから地元の自動車工場に勤めている。だが、視覚障がいであるため、普通の仕事が満足にこなせないだろうという事は、小さいながら疑問を抱いて、本人にぶつけた。すると、普通ではやらない音で判断、行動出来る工程を任されているという。その場を任されている事を自身は誇りに思っていて、周りからも手厚いサポートをもらって勤務出来ていると言われた。しかし、出来る仕事が限定されているからそれに見合った仕事を任せようという職場の意向に対して、「それは差別だ」と申し立てる人がいる事が現実である。SNSで自由に意見できる現代であるからこそ、このように主張する人は珍しくなくなっているように思う。
 改めて考えてみると、このひろあき君の職場の受け入れ方は、合理的配慮に基づくものだったのではないだろうか。例外扱いについては否定できないが、職場は彼の障がいを考えて彼がそこで生きられる場所を設けている。ここに排除の意図は無く、周りの人と変わらず働ける点では、批判される事ではないと考えられる。合理的配慮や、障がい者に関する権利などを知るのと知らないのとでは、考え方に違いが生まれると考え、こういった事を知らずしてなにかと「差別」で事を片付けてしまうのは違和感があり、このような事例への見方を改めて欲しいと思う。
 また、これは特別支援学校にも言えることだと考える。手がかかるからという理由で障がいを持つ子どもを不遇に扱う事は差別にあたるが、特別支援学校にその子どもを置くのは、虐げられることなく、平等に学習できる環境を提供して、面と向かって丁寧に指導を受けられるようにするためである。特別支援学校を「隔離している」と批判する人も一定数いるが、差別という言葉が独り歩きして、内情をしっかり捉えずに「分けられること=差別」と定義されてしまう恐れがあると考えられる。与えられた仕事を誇るひろあき君のように、今ある環境に満足している人に、第三者がその立場を差別と判断するのは、障がい者にとってかえってマイナスな感情を与えてしまいかねないと考える。こうした点から、障がい者を取り巻く環境についての正しい知識や認識を普及していくために、今ある障がい者の現実、彼らを支える法律、社会のサポート体制などを伝えていこうという姿勢は、これからの社会の在り方を変革していく過程において必至であると考える。