私の問題意識・関心のあるテーマについて 馬場朝日

 私が、関心を持っているテーマは「日本の教育がより子どもたちの主体性・自主性を育てる場になるにはどうするべきか」である。私がこのテーマを設定した理由は、学校というものは子どもたちが「学んでいる」というよりも、「学ばされている」というイメージが強い場だと考えたからである。また、多くの講義で「主体性・自主性」という言葉が登場することや、アクティブラーニングなど自ら積極的に学ぶことができる授業作りをこれからの時代は求められていると考えたためこのテーマを設定した。
 私は、なぜ日本の子どもたちは主体性や自主性を持って授業に取り組むことができていないのかの理由に、「学校」という存在のイメージや制度に問題があるのではないかと考え、そこに関心を持った。学校というものは、登校し、席に着き、授業を受ける。将来役に立つのかも分からない授業を受け、子どもたちは座らされ、教師は教壇という上の目線に立って子どもたちに教えている。まるで、全ての子どもたちを一つの形にしているように思える。人はそれぞれ個性があり、決まった一つの形になる必要はない。もちろん、教師たちも一つの形にしたいはわけではない。しかし、日本の学校教育にはそのように子どもたちを形作ってしまう性質があるのではないだろうか。同じことを学ばされ、一つの答えだけを求めらさせれ、成績が優秀な子どもだけが評価される。とある小学生のユーチューバーが学校で一生懸命に席について学んでいる友達を見て「ロボットに見えた。」と言っていた。その子は、そのような学校の性質に気づき、学校を行くことをやめた。学校に行くことが当たり前だと考え、学校に行くことを深く考えたことのない子どもと、学校というものが自分たちにもたらす影響を考えた末に学校に行くことをやめた子どものどちらが正しいのだろうか。どちらが正しいのかは、判断する基準が難しいが、学校という存在についてより深く考えているのは間違いなく後者だろう。私は、アメリカのボストンにあるサドベリーバレースクールの映像を見て、主体性・自主性を学ぶにはこの学校のような教育が必要だと考えた。この学校では、子どもたちが学びたい分野を自ら学び、教師たちはあくまでもサポートという立場になる。日本の学校教育とは違い、子どもたちが「学ばされている」という印象を受けなかった。子どもたちを一つの形にするのではなく、それぞれの興味のある分野や個性を生かした教育がなされていた。このような教育であれば、先ほど述べた小学生ユーチューバーの「ロボットに見えた。」という発言は変わるのではないだろうか。
 私は、前段落で述べたように日本の学校教育の「主体性・自主性」を考えるきっかけになった場面は多く存在する。現役の小学生を見て思ったこと、学校の性質から考えたこと、外国の教育と比べて感じたことなど様々なきっかけがあり、このテーマを深めていきたいと考えた。このテーマを深めていくにあたって、学校教育の現状やあるべき姿、外国の教育と比較するなど主体性・自主性に関わる多くの要因からこの問題を深めていきたい。そして、最終的には学校教育がどのようにあるべきかの考えを見つけ出したいと考えている。