「相模原事件とヘイトクライム」第二章のコメント 高橋良汰
第二章を読んで、二章の一ページ目に「視線」というキーワードが出てきた。「目は口程に物を言う」ということわざがあるように人は意外と目に思っていることが出てしまう。だから第一章の感想ではどうするべきなのか、と述べた。本文に出ていた横山さんは「考えすぎかもしれませんが、誰にでも「障害者は邪魔だ」という意識があるのではないか。」と述べていた。いやいや国民全員がそうは思っていないと自信をもって言いたいが、私自身の視線をどう受け取っているかなんてわからないし横山さんが述べていた「認め合う」というはまだほど遠いと正直思った。また名前を公開しない件についても言及していた。これは親の意識の問題だと横山さんは述べていた。そしてそうさせたのは日本全体の意識の問題なのだと。障害者の子を持つ親は一番近い存在でありもし周りに何か言われるようなことがあったら守る存在だと思っていたが、親の意識が日本と同じではこの現状は変わっていかないなと思った。しかし親の立場で考えたとき、もし私の子どもが施設に入って今回の事件と同じような目にあったらと考えたとき、もし今までにひどい目にあったことが一度でもあったらもうこれ以上いじめないでくれと名前を公開するのを拒否するだろう。もういいから静かに終わらせてくれと。私の母でもそうすると思う。横山さんは被害者にいてほしくなかった。と述べているが、そういう問題ではなく単にそれは愛なのではないかと思った。だからこの考えは行き過ぎていてこれも恐ろしい方向に行きかねない気がした。
二章の最後に優生思想を合理化して、死に導くことが正義であり社会の進歩だとして殺人行為を正当化してきた時代から私たちの社会はどれだけ進歩しているのだろうか。と書いてある。一見このような思想を持った人が現れるということは進歩していないように思えるがその人は進歩し成長した上でそのような答えに辿り着いたとしたら、進歩した後に待つのは認め合える世界ではないかもしれないなと思った。