1,2章のコメントを読んで 名倉令
渡邊さん2章
「家族だけは寄り添ってあげてほしい」とコメントをしているが、とても興味深い発言だと私は思う。私も初読の感想は彼と同じであったし、この思考に至るのがさも当たり前のようにも思えた。だがこの感想こそ、差別意識の温床になっているともいえるのではないか。同情はするが、決して彼らに手を差し伸べることはない。私たちが関われるような社会を望むのではなく、最低限、親が子を見捨てないような社会になることを望む。私たちは結局マイノリティである彼らの問題を、些細なこととしか捉えていないのだなと実感させられるものであった。
磯崎さん2章
情報が日常に入り込めば健常者の意識は変わる。この考えは諸刃の剣にもなり得ると考えた。磯崎さんの感想にもあるように、当事者でもない私たちが「世間の目にはきついものがある様に感じる」と感じる社会だ。障がい者をよく思わない人たちに目に入る形で情報発信を行うことは、より強い拒絶や不快感示す可能性を忘れてはいけない。またここで感じた不快感から、更なる差別・事件を生み出してしまうことだってあり得る事象だ。情報を発信しないことには何も始まらないので重要なことだが、安直に行えるものだからこそ、情報発信の仕方に留意すべきだと考えた。
高橋さん1章
「この一貫した考え方があったからこそ「通り魔殺人」などの他の凶悪な事件とは違い、事件の前と後との人々の考え方に良くも悪くも影響を及ぼすのだ。」この一文について考えていきたい。ここでは秋葉原通り魔事件と比較材料として取り上げる。秋葉原通り魔事件の加害者の犯行動機は、掲示板サイトの荒らしに対する表明手段であり、逮捕後には「生活に疲れた。誰でも殺したかった」と供述している。首尾一貫した思想どころか犯行動機でさえ曖昧なものであった。しかし、世間の反応はどうだったか覚えているだろうか。事件後には似たような犯行予告をする模倣犯に溢れ、2010年には「秋葉原のような事件を起こそうと思った」と加害者が供述をした、殺人事件だって起きている。ここから言えることは一貫した考え方というより、世間で類を見ない事件だったから人々の考え方に影響を及ぼす起点となったのではないかと考えている。そこでマスコミによる加害者の人物像が世間に刷り込まれ、最終的には思想の問題にすり替わってしまうのではないだろうか。余談だが、通り魔事件においても世間では、犯行動機を加害者の労働問題と結びつける考えが広く広まったが、加害者はこれを強く否定していた。
阿部さん1
「何かの為に行動するそのうえで優勢思想が働き障害者を殺害したのではないだろうかと私は考えた」とコメントにあるが、「何の為」の目的をどこに設定したのかが気になった。
私の場合、「何かの為」は衆議院議長大島理森宛ての手紙から利益を定義して考えた。つまり広く定義するのなら日本国の平和だが、狭く定義するなら阿部さんの感想にもある、「障害者の保護者ための行動」から汲み取れる、「(障がい者からの)保護者の解放」と設定をし、「行動」を障がい者の殺傷と設定して読み進めたのだがほかの解釈があるなら是非、聞いてみたい。
また、「利益を得るために人を殺す」とあるが、この部分から殺人の結果を利益としてではなく、手段と見ていることが伺えるが私はそうは思えない。優生思想の定義を考えるにあたって殺人は手段というより、利益の側面が強いのではないだろうか。優生思想の実現を志すということは、その人の内面に優生思想が存在することが前提条件のはずだ。つまり優生思想自体を宿すこと自体が、手段になるのではないかと考えた。(この考えが要因で、殺害や差別を肯定した過去の歴史に基づいて)最後に「人の命と利益を天秤にかけたのではなく、人の命が利益との天秤にかかってしまい」同じものを天秤にかけているが、結局は何だったのか教えてほしい。