2025年1月の日本教育史学会例会で報告しました。
報告の題名は「拙著『明治前期の国家と地域教育』を刊行して」でした。私にとっては、2016年の東洋大学で開催された第39回全国地方教育史学会での発表以来、久しぶりの学会での報告となりました。とても勉強になりました。関係者のみなさまに大変感謝しています。以下の要点で発表をしました。
(1)私の視点が、地域の第一次史料の発掘にあり、そこから地域性はもとより、中央政府の動向をみること、地域の史料から中央政府の動向を読み取ることにあります。戦後日本教育史研究は、教育政策史研究・教育行政史研究が主流でした。それに反旗を翻すかのように、70年代後半から80年代にかけて、地方教育史・地域教育史研究が発展していきました。しかし、この流れはともすると地域に重点をおくあまり、今度は中央政府の教育政策展開を過少評価してしまう傾向が出てきました。私が意識したのは、中央─地域をくし刺しにする、中央と地域を動態的に捉えるアプローチです。
(2)より詳細に語ると、前著『明治国家と地域教育』以来(ということは前著が学位論文ですから)私が一貫して追求してきた視点と方法は、国家的公共性と地域的公共性の相剋、という視点と方法になります。報告では詳細に明らかにしました。詳細というのはこの視点と方法への着眼と内容、近世的地域的共同性から近代的地域的公共性への歴史的変遷の課程について、それらが中学校設立の基盤になっていること、を報告しました。
(3)さらに拙著の各証の論点について報告しました。この報告の準備の中で、あらためて今後の課題が浮き彫りになりました。それが最大の成果です。
(1)「近代化論再論」が必要だということです。60年代近代化論は「日本の近代化」が達成されたという前提での議論でした。しかし現実の日本は、人権や自由、平等で著しい格差があり「近代化」を達成したという評価は果たして正しいのかという疑問があります。
(2)「近代化論」再論のために「地域」を位置付ける必要があるということ。拙著の「地域教育」というタームは論点を多岐に含んでいます。その内実を明らかにしながら「地域」の主体性を解明することが必要です。現在、離島をはじめ各地域で学校を核にした地域再生が進んでいます(最も有名な事例は島根県の隠岐島前高校と隠岐の島地域との関係)。それらの再検証を含めた再評価が必要です。
(3)やはり森文政の評価でしょう。これまでの教育史研究では、余りに森有礼個人を過大評価しすぎていると思います。森個人と、森文政で中核を担った辻新次、久保田譲、浜尾新、らの果たした教育行政史上での役割を80年代教育史政策の展開の中で位置づける必要があると思っています。
なお、最後に、教育史研究における共同研究の果たす役割についての再確認を強調しました。(1)大学教育がユニバーサル段階に入り大衆化が進む中で、教育史は「教養」として提供される必要があります。大学史研究の碩学・寺﨑昌男先生は戦後教育改革で実現した大学を「『教養ある専門人』を育成する機関」として捉え今の大学は「専門性ある新たな教養人の育成にある」と論じておられます。この「専門」と「教養」が転換している点が重要です。現代の大学で必要な教育史は「教養」としての教育史である必要がある。そのためには講義する側が豊かな教育学的識見を有している必要があります。その場合、そうした豊かな識見は、どこで形成するか。「専門性」を磨く場所は勿論学会ですが、自分の研究テーマという専門性を、教育史あるいは教育学の中で鍛える必要がある。それは「共同研究」が有効だと思うのです。私の場合、1880年代教育史研究会を組織しました。そこには初等教育の専門家である佐藤秀夫先生、大学史の専門家である中野実氏がおられました。そこでの豊かな議論は、中等教育史を専門としている私にとってかけがえのない視野を広げる機会となりました。「就学告諭」の共同研究も、隣接している領域の研究者が集いました。それは教育史を教育学で位置づける格好の機会となったことはいうまでもありません。現在、教育史のポストの後任に教育史研究者が配属されるケースが少なくなりました。大学院生は、指導教員(教官)を失う危機にあります。共同研究によって他大学の研究者とともに研究を進める機会は自分の力を付ける格好の機会になるでしょう。
日本教育史学会の発表は、共同研究の重要さを力説して閉めました。